俺の辞書に「幸せ」という言葉はないに等しいが、「幸せ」としか言いようのない瞬間を享受したので報告したい

 

「世の中、自分以上に不幸な人間がいるのか」


身近な人から、そう目の前で嘆かれる出来事があった。自業自得と言えなくもない状況のなか、自らに起きたことを「不幸」と認識し、断定し、心が叫ぶ通りに「フコウ」と発声し、表現したその人を、私は驚きの目で見ていた。


これは嫌味でも皮肉でもなんでもない。本当に、純粋に、驚いたのだ。「不幸」という語彙が、なんのためらいもなく、その人の口からパッと出てきたことに。「不幸」は「幸せ」と表裏一体だから、「幸せ」を認識する者の手札にしか残らないカードだ。


「幸せって気持ちがわからないんです」という話ではない。あくまで言葉だ。言葉の話だ。


たとえば、おいしいものを食べたときはどうだろう。

 

おいしい! 幸せ!

 

うん、わからなくはない。食べるのが好きな人間は、皆それなりに同じような感情を共有しているはずだ。そうそう、"アノ"感覚だよね。しかし、"アノ"感覚を万人が「幸せ」という言葉で束ねているわけではないように思う。


おいしい、好きな味だ、食感が楽しい、ずっと食べてみたかった、意外とイケる、自分が作るよりはるかにおいしい、食べたかったものが食べられて嬉しい、この人と一緒に食べられて嬉しい、あの人に作ってあげたい……。おいしいを取り巻く感情は非常に複雑で奥の深いものだと、書き出してみればわかる。なのにそれを「幸せ」という言葉で曖昧に、うやむやにしてしまうのは、少々もったいないのではないだろうか。せっかく個々人に豊かな感想があるというのに。


だから、私は「幸せ」という曖昧な言葉を好き好んでは使わない。もっとはっきり言えば、まぬけで胡散臭く愚かで鈍い言葉だと思っているから、信用していない。信用できない言葉を、わざわざ使わないのは当たり前のことである。


「絶対的な幸せ」が存在する一方で、「相対比較でしか生まれ得ない幸せ」もある以上、気持ちよく使える言葉ではないのは事実だ。別れの季節に巷に溢れかえる、「私は周りの人に恵まれていて幸せ者だ!」というフレーズは、この世で最も嫌悪する類のものだ。これこそまさに、「周りの人に恵まれていないかわいそーなヤツ」との相対比較においてしか成り立ち得ない「幸せ」であるのだから。


というわけで、私の辞書に「幸せ」は常駐していない。「幸せ」が非常勤なのだから、当然「不幸」という言葉もほぼ顔を出してこない。それで、冒頭の「フコウ」発言に少々驚いてしまった次第である。

 

とはいえ、だ。


それでも先週、「幸せ」としか言いようのない瞬間を享受したので報告したい。

 

ちなみに、今すでに1150字書いているが、ここまではリード文にすぎないことをお知らせしておこう。これからイギリスのドラマ『フリーバッグ』について熱弁するので、関心のない方はUターンをお願いします。

 

5年ぶりにフリーバッグを見返した。2016年の放映当時から根強いファンを獲得してきた本作は、フィービー・ウォーラー=ブリッジが主演、脚本、監督すべてを務めるコメディドラマだ。

 

自殺で親友のブーを亡くし、ブーと営んでいたカフェは破綻寸前。再婚間近の父、堅物の姉クレアとは折りが合わず、孤独を埋めるようにして取っ替え引っ替え男と寝てしまう。なんだかいろいろと"大丈夫じゃなさそう"な皮肉屋アラサー女性のフリーバッグ(ニックネーム)が主人公。彼女をフィービーが自ら演じ、英国アカデミーテレビ賞女性コメディ演技賞をはじめとした数々の賞を受賞した。

 

シーズン1の3話あたりまでは、フリーバッグの癖のある人物像や過剰な性的ジョークが笑いを誘う、喜劇色の強い仕上がりとなっているが、そこから徐々にグラデーションのようにして悲劇の様相も入り混じっていくのが特徴的だ。強烈なシーズン1に続き、禁欲が原則の司祭に"ガチ恋"するシーズン2もかなり飛ばしている。

 

5年寝かせて再視聴した感想としては、こんなにすごい作品だったっけ!?というところだ。

 

もっとも「すごかった」、印象的だったのは、職場のスピーチを成功させた姉のクレアが、後々虚無になり妹のフリーバッグに八つ当たりするシーンだ(S2 EP3)。ふだん、つねにどこか緊張感を漂わせて人と会話をする真面目な姉は、妹から盗んだジョークでひと笑い獲得してしまった。クレアがもう少し器用で肩の力の抜けた人間だったならば、「スピーチがうまくいったのはアンタのおかげだよ」と妹の肩を叩きワインの一杯でも奢ってやっただろうが、そうはいかない。


あろうことか、クレアは嫉妬剥き出しでこう言う。お前はいつもfineでinteresting だ。奇抜なカフェの経営や親友の自殺だって、もはやその「コク」になっている。私の方が学歴があって高級取りで夫がいて良い人生のはずなのに、なんだかこっちが負け犬みたいじゃねーかよ!こんなジョークくらい、私にだって思いつくんだっつーの!と。


このシーンの新鮮な驚きといえば、姉が攻撃するのは妹が「面白い」ことに対して、マジでそこだけ、そこオンリーだったことだ。面白い人間であることによって得られるもの、つまりそれで人気者になるとかモテるとか社会的に認められるとか、姉はそういうことを羨んでいるわけではなかった。紛れもなく、妹が「面白い」、そこが気に入らない、に一点集中なのだ。


実際のところ、至る所でお構いなしに繰り出される妹のジョークは、時に人を不快にする。彼女は、自分の「面白い」という資質によって側から見ればむしろ生きづらくなっているようにさえ思われる。人気者でないどころか、友達すらもいない。けれども姉は妹の「旨み」のようなものをないものねだりする。


そして、あとから判明するのだが、二人の父親も死んだ母(元妻)に対して同じ怒りを抱えていた。父と姉、母と妹は似たもの同士だった。父と妹のそれまでの微妙な距離感、ディスコミュニケーションは、そこに起因するのだった。

 

女が女の「面白さ」を妬む。これはなかなか、フィービーにしか書けなかったものだと思う。「面白さ」を姉にただしく妬ませるには、妹の「面白さ」をその時点までに証明していなければならない。オモシロを背負ったキャラクターとして、フリーバッグを作り込んでおかなければならない。間違いなく面白いものを書ける自信がなければできない演出だと感じ、フィービーの気迫に度肝を抜かれた。

 

そして、その妬みが直接本人にぶつけられるところも一つ、物語ならではのポイントといえる。これは、「文学は役に立つのか」という永遠の問い、つまり「物語の効用」の問題にかかってくることでもある。

 

一般的に人は、あんなに大真面目に本音を他者にぶつけることはない。とくに相手への嫌な感情は、胸の中にしまっておくことが大半だ。本心を開示しなければ距離が縮まることもないが、絶縁することもない。離れて暮らす家族だったら尚のこと、いまさら波風を立てるくらいなら、遺産がもらえるまで、というか死ぬまで、なあなあでいこうと考える人も少なくないだろう。

 

しかし物語は違う。キャラクター同士を本気でぶつけることができる。あの姉妹の言い争いは、現実世界であればほとんどの確率で起こり得ないものだ。年長者である姉が、妹に対して「私はあなたを妬んでいる。なぜならあなたが私よりはるかに面白いからだ」という感情を抱いている。それをオープンにするなんて、ふつうはプライドが許さない。だから、物語上における人と人との交流を、私たちはある種の「実験」として、「ぶつかり稽古」として、鑑賞することができる。

 

他者と関わると、人は変容する。良くも悪くも相手から影響を受け、考えや行動が少しずつ変わっていく。「面白さに嫉妬していました」という告白は、本作では姉から妹へ、父から妹を介して死んだ母へ、一度ずつなされるが、この「ぶつかり稽古」がそれぞれの関係に変化をもたらす。『フリーバッグ』のように「起承転結」を最重視していない会話中心のドラマは、そういったぶつかり合いを重層的に引き起こすことによって、微々たるものであっても、それぞれのキャラクターとその関係性に新しい風を吹かせていく。その積み重ねをもって、物語を構築していく。

 

「本心を伝える」という至極シンプルなこと。現実世界を生きる人間が、愚かなまでに避け続けてしまうこと。避けなければ起こり得たはずの変化……。

 

文学は役に立つ/立たないという軸からは少しずれるにしろ、そこに果敢に挑めるのは、これが文学だからである。フィクションとして完璧に作り上げた舞台装置の中でのみ、なせる荒業なのである。

 

そういった物語の効用をこの作品から感じ取った時、私はえもいわれぬ「幸せ」を味わうこととなった。こんなに豊かな経験は、地球上のどこを探してもそう簡単には見つからないと思う。たかがドラマ一本見ただけで大袈裟な、と思われても仕方ないかもしれないが、自分の人生を精一杯生きるだけでは目撃できないレアなものを見ていられる、というのはなかなかに良いものである。