たとえ子供部屋おじさんでも「生きることに耐えた」時間の積み重ねは、ある

 

ビクトル・エリセ監督の最新作、『瞳をとじて』をみた。

 

端的に言って、それはもうしみじみと沁みわたるように良い映画だった。

 

まぁ、ヒューマントラストシネマ渋谷のあの肩甲骨あたりのカーブが微妙なシートに、仕事終わりに3時間も埋もれていたものだから、「いつ終わるんだよこの映画」と思わされなくもなかったが、やっぱりまたみたい。とくに年を重ねてからみてみたい、と思った。

 

年を重ねてからみたいと思ったのは、それが「時間」や「記憶」にまつわる映画だったからだ。

 

gaga.ne.jp

 

瞳をとじて』は、寡作ながらもファンの多いスペイン生まれの巨匠が、31年ぶりに世に送り出した長編映画だ。映画の撮影中に突如として姿を消した俳優フリオの行方を、かつてその映画の監督をつとめ、親友フリオをキャスティングした張本人であったミゲルが、テレビ番組の企画をきっかけに22年の時を経て探す、いや、探し直すストーリーだ。

 

失踪事件の謎を追う番組に提供する情報を集めるべく、ミゲルは、映画仲間のマックス、フリオの娘アナ、元恋人ロラの元を訪ねる。この再捜索の旅のなかで浮かび上がるのは、状況証拠のみで警察に自殺と判断されたフリオが、いかにもいつでも消えてなくなってしまいそうな人物であったということ……もそうだが、それ以上に、フリオのいない20年の間にミゲルの人生の空隙は他者によってそれなりに埋められていて、かつフリオの不在とは全く関係のない次元で、ミゲルはフリオ以外にも多くのものを失ってきた、ということであった。

 

※※以下段落のみネタバレ注意※※

主演の失踪により制作を中断せざるを得なくなった映画はついぞ完成されることはなく、ミゲルはそのまま監督を辞め、幼い息子は事故で亡くなり、それが原因なのか妻とは別れ、今は物を書きながら寂しく楽しく、海辺で穏やかな暮らしをおくっている。このミゲルという人物の過ごしてきた「時間の厚み」は、それだけ「濃く深い記憶」と結びついていて、その記憶が、マックス、アナ、ロラやその他の登場人物との「会話」によって引き出され、観客に示されていく。しかし皮肉なことに、のちに海辺の施設で発見されるフリオには、過去の記憶がない。記憶のないフリオは、自らの過ごしてきたはずの「時間の厚み」を、「言葉のやりとり」で表現することができない。なんとかしてフリオの記憶を蘇らせたいミゲルが最終手段として用いたのは、かつての彼らを繋ぐ「映画」だった。

※※ネタバレ終了※※

 

エリセの人生にとって映画と他のオーディオビジュアルを分けるものの何かがあるということなんだと思うし、それがおそらく精神とか魂みたいなものを一体どうやって定着させるんだという問題につながる。本作はそれを、真正面からやっていますよね。なんせ「瞳を閉じる」わけですから。映画なのに。この映画で初めてエリセ作品に接した人にとっては、もしかしたら座っての会話劇が平板に感じられるときもあるかもしれないですけれど、過去のエリセ作品を観ているだけで膨らんでくるものはまったく違ってくるし、古今東西の映画を観ていれば違ってくるし、そしてどんな人生を送ってきたか、この場合は特に何を失ってきたかによってもまったく違うものが見えてくることになるし、その「見えないもの」を撮るべく腹をくくった、覚悟の映画であるという印象を持ちました。(濱口竜介ーーーパンフレットの鼎談より一部抜粋)

 

濱口竜介監督のこの発言をなぜ引用するかといえば、いろんな大事な要素が詰まっていると思ったからで、それは一言ではうまく表せないけれども、この映画についても、エリセという監督についても、自分、他者、時間、人生、記憶、その他もろもろについても、なんだか本質的なことを言われているような気がしたからだ。

 

奇しくも最近、この映画のようだと言えなくもないことが自分の身に起きたといえば起き、詳細は伏せるが、それで1ヶ月近くもの間、そのことにつきっきりの生活をしていたところだった。それを機に、今まで断絶されていたコミュニケーションのいくつかが復旧され、新たな気づきを得ることもあった。ずっと目を背けてきた他者をつまびらかに観察するうちに、じんわり伝わってきたこと。それは、年長者には、特有の「時間の厚み」が滲み出ているということだった。

 

年長者に特有の「時間の厚み」というのは、年功序列的に人生経験が豊富、という意味ではない。正直なところ、年を重ねたからといって皆の経験値が上がるわけではないと思う。挑戦しなければ経験できない。挑戦にもアクセシビリティがあり、なんらかのマイノリティ性を所持していたら、挑めない場合もある。「大人」は「酸いも甘いも知ってる」って? それは挑戦にアクセスできた人間だけだ。本人の資質として、どうしたって「愚鈍」な人間もいる。0はかけても0、みたいな人生だってある。

 

しかし、たとえ人生でなにも成し遂げていなかったとしても、今すぐ死にたいほどに大きな後悔を抱えていたとしても、一人では何もできない人間であったとしても、生命体として長い時間を耐え忍んできた、という意味での「時間の厚み」を、その波動を、やはり年長者から感じずにはいられなくなった。

 

このブログで一番言いたかったことは、記事タイトルの「たとえ子供部屋おじさんでも『生きることに耐えた』時間の積み重ねは、ある」という部分にほかならない。社会とかかわらずに親の庇護を受け、引きこもったまま中年になった「こどおじ」は、経済的に自立をしていないという事実から「未成熟」のレッテルを貼られがちな存在である。しかし、何度も言うように、そんな人にも「時間の積み重ね」は十分にあるのだと、今では思う。私は現在、それを肯定し尊重するマインドにある。

 

生きることは耐えること、と常々ペシミスティックに考えているわけではない。ただ人生には、SEKAI NO OWARIが〈生物学的幻想曲〉で、僕は命のサイクルのなかでぐるぐる廻されているだけの存在なんだと歌っていたような類の、根本的な虚しさがある。〈生物学的幻想曲〉を貫くのはワルツのリズムだが、そんなふうに美しく廻れる人間は少ないはずだ。大半は回転寿司のように、なにがなんだかわからないままに次から次へとジャンジャカ廻され、気がついたら捕食され、皿の色ごとに分類され、表舞台から下げられる。それが切なく虚しく可笑しい。それが人生だ。なんだか笑える。そう、なんだか笑えるのだ。

 

その可笑しみを、人生のくだらなさを、うまく言い表している表現に出会った。

 

これまでおとぎ話めいた幻想を抱いて生きてきたのに、自分が別に特別じゃなく、混乱した時代にたまたま居合わせた二人のボンクラが、不本意ながら産み落とした胎児だと知った衝撃は大きい(ダニエル・クロウズ『モニカ』)

 

ダニエル・クロウズ 『モニカ』presspop.gallery

 

『モニカ』は、『ゴーストワールド』のダニエル・クロウズによる最新グラフィックノベルだ。題名通り、恋多き母親ペニーに振り回され捨てられた娘のモニカが主人公で、彼女は自らの出生の秘密を暴く旅に出る。母親がカルト宗教にのめり込んでいた形跡を発見すると、モニカは自分のルーツを教祖に見出す。カリスマ性のある教祖と、その男に見初められた女。二人の間に生まれた「選ばれし」子としての、私。調査を進めるうちに、その想像はどんどんもっともらしく感じられてくる。しかし蓋を開けてみれば、モニカの父親は教祖でもなんでもなく、よくいる取るに足りない男でしかなかった。笑えるほどありきたりでパッとしない出自だった。母親は娘を捨てた罪悪感を人並み程度には持ち合わせていながらも、ケロッと新しい同居人との第二の人生を始めていた。その事実を淡々と受け止められるほどには十分に中年となっていたモニカは、2年後、死んだ母親の家を掃除しゴミ収集車を見送る段になって、「宗教的なほどのすがすがしさを覚え」たという。

 

人生の「虚しさ」には思春期のころに一通り思いを馳せた。今は、虚しさの先の「可笑しさ」を見出すことにハマっている。「可笑しさ」を感じられるのは、ある種肩の荷が下りている状態だからだと思う。モニカの「すがすがしさ」も、その周辺の感情といえるだろう。「サブカルは40歳で鬱病になって死ぬ」と頻繁に聞くので、また「虚しさ」に戻ってきてコロッと死を選ぶ可能性もあるが、たびたび繰り返してきた「生きることに耐えた時間の積み重ねを尊重すること」は、「自死を選ばなかった人を賞賛すること」とは全く違うから、べつに死んだっていいと思っている。

 

話が行ったり来たりしているが、身の回りで起こったプライベートな出来事を通して、ここ1ヶ月ほどぼんやり考えていた人間の複雑さには、エリセの撮ろうとした「見えないもの」と通底するなにかがあると確信している。『瞳をとじて』は、若造には撮れない映画だった。うまい言い回しが思いつかない。綺麗に言えない。が、とにかく、「若ぇ奴」にはこの3時間の物語を組み立てるのは土台無理な話だと、「若ぇ奴」にはこの「厚み」はまだ出しようがないと、「若ぇ奴」のひとりとして素直に実感する映画体験だった。